三味線ストリートで学んだコト
十代の後半から二十代の前半
ボクはストリートで津軽三味線を演奏していた。
歌舞伎の開祖、出雲阿国や津軽三味線の門付けのように芸能の原点は河原者にあると思ったからだ。
いきなりそこに座り込んで弾き乞う行為は本当に嫌だったが、沢山のコトを教えてもらった。
いきなりしゃがみこんで目の前のちょっと先にお金を入れてもらう帽子を置く。
何も置かなくて聞いてもらいたいので置かない人もいると思うが、それは独りよがりになりがちなのでコミュニケーションをしたい。
お金を出すというのも一つのコミュニケーションだと思う。そしてその芸に対する評価だからだ。
評価というのは本当に厳しい。
人は興味のないものに対しては空気くらいの扱いをするものだ。
しかし、そこで負けては行けない。
いかにしたら振り向かせるか?それを考えるのだ。
例えばボクは
音にこだわる。
弦は最上級。
三味線の3弦の太さは基本
1 30
2 15
3 13
だが
1 35
2 17
3 14
っとかなり太めである。
太くなるほど
スパーん っと弾きぬくのが難しくなる。
しかし、音量はすごい。
室内の音楽は微細なモノも大切だが、ストリート大道芸はまずインパクトが大切だ。
後、気迫。
演奏は一度始まると何がらおこっても最後までは終わらない。
三味線の弦は2時間も渾身の音で弾きまくっていると2と3の糸が削れて切れるコトがある。
三味線の弦が一本になっても。とりあえずなんとかして弾ききる。それも一つのパフォーマンスだが、それでも何とか出来るというトコに人は感動するものなのだ。
そういうこだわり、熱心さというものは人にも伝わるようで
にいちゃん頑張ってなー
っとか色々な食べ物や飲み物を置いていってくれたり、そりゃヤクザやチンピラに場所代をせがまれるコトもあったが、それも含め何とかしてきた。
けど、それで学んだ1番大切なコトは
人っていうのは独りでは生きていない。
っということだと思う。
極端で単純な話。今、着ている服、家も誰かが作ってくれているというコトだ。野菜も種を植えて育ててくれている人がいる。
そういう目線で全てのモノを感じるとまた世界が変わる。
実は世界は愛に包まれているのだ。
それを感じるか感じないかは自分次第なのである。
人はつい独りで生きていると思いがちだし
そういう風に思いやすい時代なのだが決してそんなコトはない
それは
心の底からありがたいな
って思うコト
それは人として幸せに生きていくための基本なのだとも思う。
そう思えないなら本当にやりたいコトをバカみたいにやってみる。そうすると感謝は自然と生まれるはずだ。
色々な情報に振り回されて自分のコトを忘れそうになったり全てが嫌になったりする時、着ている服を見たりして感じてみて欲しい。
人はどんな人も一人では生きてないんだよ〜♪